ルールは守るべきである。これに異論はない。
秩序は大切であり、それを基に僕たちの生活は成り立っている。
でも、同時に「ルール」には、ある種の危うさも潜んでいるような気もしている。
ルールがあることで、無意識のうちに現状が当たり前になり、本来あるべき姿や本質の部分を見つめ直すことを忘れそうな瞬間があるのではないかと感じている。
いわゆる「思考停止」の状態に陥ってしまう可能性を含んでいる。
サッカーの世界でも、コロナ禍を通じて様々な「ルール変更」があった。
交代人数や飲水タイムなどのピッチ上のものから、応援の方法や入場者数に関する運営面のものまで、本当に色々な対策がなされてきた。
きっとそれらの決定にも、沢山の人が思考を巡らせ、最善の方法を模索してくれたに違いない。
これらのおかげで今もリーグが成立し、僕たちは仕事が続けられていることは紛れもない事実である。
敬意と感謝を忘れてはならない。
加えて、これだけの未曾有の事態に必死に対応して下さる医療従事者の方々には頭が上がらない。
ただ、少しずつ感染症に関するのデータや詳細が見えてきた中で、今度は元のルールに戻していく過程に移行しつつあるのが「今」の状況である。
新型コロナウイルスが流行し始めた時は「大変なことが起きたな」と思ったし、それは間違いないのだけれど、心理的に難しいのは、むしろ今なのではないかと感じている。
当初は未知のウイルスに世界中が怯え、拡大防止に舵を切るのは、ある程度「満場一致」状態だったように思う。
しかし、現在は色々な情報が交錯し、それぞれの立場や状況によって意見が割れることが多くなってきている。
個人的な自分のポジションを話すのならば、「可能な対策はした上で、元の生活に戻していくべき」というのが僕の意見であることは、ここで明確にしておく。
ただ、場合によっては、そう思えない人もいるだろう。それは仕方ない。
本当に感染拡大を懸念する人もいるだろうし、そもそも今のままが都合が良いという人もいるだろう。
そして、「現状維持」の方が面倒なことが起こりづらいと考えてしまうのは、今回のことに限らず、よくある心理状況にも思える。
ここでもう一度考えるべきだと思うのは、自分達の場合「なぜ、サッカーをするのか」という本質的な部分だと思う。
仕事だから。
これもあるだろう。では、この仕事は何のために存在するのだろうか。
これは以前から言っていることなのだが、僕らの仕事は「娯楽」に分類されると思っている。
つまり、存在しなくても生死には関わらない、飾り付けのようなものだと。
表現が正しいかは分からないけど、無くても困らないけど、あれば生活が彩られるもの、そんな感覚を抱いている。
であれば、観ている人が気持ちの良い状況に出来る限り早く戻していく必要があると思う。そうでないと、娯楽の存在意義が薄れてきてしまうのでは、と懸念している。
勝ち負けによる気分の浮き沈みはあるにしても、そもそも「試合を観に行く」モチベーションを上げなければならない。
満員の会場で大声を出して応援したいという思いは多くの人が抱いているだろうし、開催の可否を決める統一感の乏しい基準に、やるせなさを感じたくもないだろう。
試合の内容や結果以外の部分で、足を運ぶのを躊躇ってしまう要素は出来る限り減らす方向に進めるべきではないかと感じている。
でも、この気持ちをどこに向ければいいのか分からない、というのも現実問題としてある。
各クラブやJリーグを運営して下さっている方々も同じ思いであるのは変わりないだろうし、選手もサポーターもおそらく同じだ。
そして実際に変化は動き始めてもいる。問題はスピード感。
となると、根本的に感染症に対する対応を見直すしかないのかもしれない。
僕には専門的な知識もないし、医療に携わる方々の視点から見た時に、何が一番最善なのかは分からない。
だから軽率な発言をすべきでないことは重々承知しているが、世界的に見た時に、コロナ禍以前の世の中に戻りつつある国が多いことは、なんとなく大半の人が理解しているのではないだろうか。
「全て横一列で」というつもりはないけど、勇気を持って変えていくべき局面に差し掛かっていると感じている。
全ての人が納得出来るルールは存在しないと言っていい。
誰かが我慢する場面は必ずあるし、嫌な思いをすることも沢山ある。
それでも、僕たちに出来ることは「こうすると多くの人がハッピーになるのでは?」という意見やメッセージを伝え続けるしかないと思っている。
その想いが届いて何かが変わり始めるまで、根気よく。
Jリーグに関わる様々なニュースを見ていると、サポーターの方々も、もどかしい思いを抱えているのを確かに感じる。
それは多分、選手も同じ。
今こそ一つになって、熱く楽しいJリーグを取り戻していきたい。
僕らにできることは多くないかもしれないけど、出来ることをやっていこう。
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