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誰かの人生を乗せて戦うということ

伝えたいこと

想像力とモチベーション。

この二つは密接に関わり合っているように感じています。「こうだったら嬉しいな」とか、「こうなったら盛り上がるな」などというような想像が、自分自身の気持ちを高めてくれることが多々あるように思います。

今日は、最近想像したシチュエーションとそれによって再認識したことについて、少しお話させて下さい。

少し前のことなのですが、試合前日に、ふとこんなことを考えていました。

「そういえば僕は、誰かや何かのファンになったことがないな…。」

僕には、自分の人生を懸けて何かを応援した経験がないということに、その時気がつきました。サッカーの試合を見に行ったり、アーティストのライブを見に行くことはあっても、それに自分の夢や人生を乗せてまで…という熱い経験がありませんでした。

誰か自分以外の人の夢や目標を一緒になって応援しようと思ったとき、人はどんな感情になるのだろうか、ということを想像してみたのです。

例えば、僕たちが試合に負けた時。応援して下さっている方たちは自分が負けたかのように肩を落として、帰り道を重い足取りでトボトボと歩いていく。なんだかテンションの上がらないまま週明けを迎えて、暗い気持ちで仕事に取り掛かる。

反対に勝ち試合を見た後にあげる祝杯は、最高の思い出になる。眠れないほどの熱狂と興奮に包まれたまま、次の日からウキウキとした気分で仕事が捗る。

これはあくまで僕の想像に過ぎませんが、経験のない僕には想像することしか出来ません。こんなことを考えたら、何としても勝ち試合を届けなくてはならない、という気持ちに一層火がついたのです。

僕たちは誰かの人生を背負っている。

改めて強くそう感じました。スタジアムにいる全ての人がそうとは限りませんが、長きに渡って応援して下さっている人は、これまでに沢山の時間やお金、感情を僕たちの応援に費やしてくれているわけです。

あるいは初めて試合を見に来た人にとっては、その試合によって今後人生の大切なリソースを割いてまで応援しようと思えるかどうかが決まるのかもしれません。

それらの時間やお金があれば、もしかしたら海外旅行に行けるかもしれないし、恋人とのディナーに費やせたかもしれません。もっと高い家を建てられたかもしれないし、それほどの感情エネルギーがあれば他の何か楽しいことに没頭できたに違いありません。

そんな魅力的なものたちと引き換えに、僕たちを応援してくれているのだと思うと、自然と突き動かされるものがあるのは必然でした。

誰かの人生を楽しいものにするために、勝利を求め続け、勝つために出来ることを模索しつづける義務が僕たちにはあるのです。

しかし、残念ながら僕たちが行う試合には勝敗があります。全ての試合で勝つチームは皆無と言っていいでしょう。だからこそ、せめて何か少しでも明日からの活力になるものを届けなくてはなりません。

たとえ思うような結果ではなかったとしても「まぁアイツらも頑張ってたし、俺も頑張るか!」と思ってもらえるように、一つ一つのプレーに気持ちを込めなくてはなりません。

そして選手もまた、応援によって様々な壁を乗り越えていけるのです。

この仕事をしていて、人に気持ちや熱量を伝えることの難しさは痛いほど理解しています。言葉を使って伝えるのとは違い、醸し出す雰囲気やプレーによって自らの気持ちを表現することは簡単ではありません。

ただ一つ確実なのは、自分たちのプレーに対する反応を、スタジアムの空気を通じて感じることができるということです。「今ボルテージが上がったな」とか「ちょっとトーンダウンしてしまったな」とその瞬間瞬間に肌で感じ取れるわけです。

90分間の中で、観ている人が心を躍らせる瞬間を少しでも増やしたい、その一心で戦うことに勝利と同じくらいの価値があるのではないかと思っています。

誰かの人生を乗せてもらうだけの価値があるプレーを目指し続けなくてはならないのです。

「誰かのために働く」とよく言われますが、僕たちの職業のように、顔が思い浮かぶほど「誰か」が明確な仕事はそれほど多くないと思っています。

スタジアムに集まってくれた人、画面に釘付けになって応援してくれる人、その人たちのために僕たちは90分間走り続けるのです。

人生をかけて応援してくれる人たちに、人生をかけて応える。その覚悟を持って、ピッチに立つことを忘れないでいたいと改めて思いました。

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